彼女は、五日前の深夜、出て行ってしまったのだ。理由は、要するに私と喧嘩
したからだ。喧嘩の理由は、まあつまらないことだ。ここで詳しく説明するほど
のことではない。とにかく、どこにでもあるような子供じみたことでわれわれは
言い争い、結局彼女が出て行ってしまったというわけだ。
はじめのうち、私は怒っていた。彼女には、相手を思い遣る気持ちが欠如して
いるのだ、と思ったりした。腹が立ち、仕事など手につかなかった。
私は、彼女から電話がかかってくるのを待った。いや、もちろん意識してベル
が鳴るのを待っていたわけではないが、ワープロに向かっても、集中できないの
だ。それでも、二晩は頑張ってみた。だが、原稿はほとんど進まなかった。三日
目からは、あきらめた。
あきらめるのとほぼ同時に、腹立たしい気持ちは悲しみに変わっていった。ア
シカと、結局は理解し合うことができなかった、という悲しみである。
はっきり言って、今、私はかつて体験したどのような悲しみよりも深い悲しみ
に包まれている。
それが、こんなにも深く私を傷つけるとは思ってもみなかったのだ。だが、彼
女はもう電話なんてかけてこないだろう。もちろん、私が悪いのだ。この小説
は、あの任意性のアシカの存在抜きには成立しないというのに。彼女は私の中
で、今ではむしろ必然性のアシカに成長しているというのに。
アシカの存在抜きに、私はこの先、何を書いていけばいいというのだろう。
任意性のアシカが特定された瞬間、彼女は消えた。これは、何か示唆的な事柄
なのだろうか? いやいや、そんなふうに考えるのはよそう。もしそうなら、私は
二度と立ち直れなくなってしまうかもしれない。
このままでは、この先を書きつづけることなどとうていできそうにもない。気
が狂いそうだ。で、私はホテルにこもるという当初の予定を変更し、街へ出かけ
てみることにした。今から、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのコンサートへい
くのでだ。
すべては、それから後のことだ。
チケットは、ダフ屋からではなく、窓口で当日券を買うことができた。四千五
百円の、アリーナのチケットである。
コンサートは、アンコールも含めて、二時間ぶっ通しで行なわれた。とても明
るいロックンロール・ショーだった。
コンサート終了後、グランド・パレスのロビーへ行ってみた。誰か知り合いに
会えるかもしれないと思ったからだ。そのまま真っ直ぐに、アシカのいないワシ
ントン・ホテルへ戻る気になどとうていなれなかったのだ。
口に出して決めたわけではないが、武道館でのコンサートを見た後は、グラン
ド・パレスのコーヒー・ルームでお茶を飲んでから帰るか、そうでなければ近く
にあるアジャンタというインド料理の店でカレーを食べてから帰る、というのが
仲間内での習慣になっているのだ。
グランド・パレスのロビーで、私は二人の知人に会うことができた。
一人は、素晴しいオートバイ小説を書いている歳上の小説家だ。
「やあ、元気ですか」
彼のほうが、そんなふうに声をかけてくれた。
われわれは、五分ほど立ち話した。だが、もちろん、私のほうから、飯でも食
べに行きませんか、と気軽に誘える相手ではない。それに、彼は原稿を持ってい
て、これからそれを誰かに渡すところらしかった。そのうちゆっくり、というこ
とでわれわれは別れた。
もう一人は、いっしょにジャマイカへ行ったこともある、サーフィンが大好き
な歳下の友人だ。彼は、一人でソファに腰かけていた。彼も、ヒューイ・ルイス
のコンサートの帰りだということだった。友達を待っている、と彼は言った。そ
のうち、五人の男女がやってきて、彼は彼等といっしょに行ってしまった。
仕方がないから、坂道を登り、アジャンタへ行った。
店の前に、真っ赤なアルファロメオが停まっている。しめしめ、と私は思っ
た。案の定、友達のロック評論家が、放送局のディレクターと紅茶を飲んでい
た。彼はFM放送でDJもやっているのだ。後から近づき、背中を叩いてやった。振
り返ると、彼は言った。
「会場でさ、見かけたから、声かけたんだぜ。大声で叫んだのに、さっさと行っ
ちゃうんだもん。女の子でも待たせてるのかと思ってさ」
われわれは、そこで一時間ほでインド紅茶を飲みながらヒューイ・ルイスの話
をしていた。
「ロック・シーンが保守化していることを典型的に示すようなコンサートだった
な」
それが、彼の感想だった。
「でも、良かったじゃない。スプリングスティーンほど色気はないけど」
それが私の意見だった。昨年ロサンゼルスでいっしょにブルース・スプリング
スティーンのライヴを見たことがあるのだ。
放送局の人は帰り、われわれはそれから彼のアルファロメオで鰻を食べに行っ
た。神田に安くてうまい店があるから教えてやる、と彼が言ったのだ。その店は
鰻屋ふうではなく、まるで料亭みたいな造りだった。
「最初に連れてきた奴はみんなビビるんだよな。でも安いんだよ」と彼。
二階の個室に通された。私だけ、酒を飲んだ。
「わざわざホテルとって原稿買いてるくせにいいのかよ」と彼は言った。
「いいんだよ、なんかやる気しなくて」と私。
「だいたいさ、今の小説シーンで、音楽シーン以上に惨澹たるものだからな。ロ
ック以上に財北してるじゃない。そりゃ消耗だよな。わかるよ」
「いいの。おれは好きでやってるんだから」
「じゃあ、文句言うなよな」
いつか彼に、小説書くのやめて、いっしょにレーザー・ディスクのソフト作る
会社をやらないか、と誘われたことがあるのを思い出した。圧倒的に儲かるぜ、
と。
彼と別れ、タクシーでホテルに帰った。飲みすぎたのか、飲み方が悪かったの
か、私はかなり酔っていた。コンサートの間も、友達と鰻を食べている間も、私
の頭からアシカが消えることは一瞬たりともなかったのだ。
ふらつく足を踏みしめて、私はエレベーターに乗った。二十一階で降りる。
2101。それが私のルーム・ナンバーだった。
カードを差し込み、ドアを開ける。
感動にむせびながら、私は言った。
「帰ってきてくれたのかい‥・・・・」
アシカの大きな黒い瞳から、涙の滴がこぼれる。
「ごめんなさいね。あなたに、こんなにつらい思いをさせて。わたし、もうどこ
へも行かないわ」
私はアシカに駆け寄り、彼女を抱きしめる。そして、手を伸ばしてラッパをと
ると、高らかに吹き鳴らした。ぷっぷぷぷー、と澄んだ音が部屋に響いた。ウォ
ン、ウォン、ウォン、とアシカは鳴いた。体中に、勇気がみなぎってくるようだ
った。アシカが、ざらざらした舌で、私の顔をぺろぺろ舐めまくってくれる。あ
まりの幸福に、私は気が遠くなりそうだった。
それから、私達はいっしょにサッカー・ゲームをやった。互いのゴールを決
め、七色のボールを蹴りまくる。ベッドの上、テーブルの下、所かまわず私達は
転げ回った。アシカの尾ビレのキックは強烈で、そして正確だった。私など、と
うてい太刀打ちできない。
〈9-2〉という私の完敗でゲームが終了し、私達はそれぞれのベッドに横にな
り、荒い呼吸を整えた。
ほんとにハッピーだ、私は思った。そして、ふと思いついたことをアシカに聞
いてみた。
「しかし、君はどうやってこの部屋には入ったの?」
彼女は裸で横になったまましばらく私を見つめていたが、やがて言った。
「まだわからないの? わたしは任意性のアシカなのよ。わたしの不在も、わた
しとの再会も、あなたが決めたことじゃないの。あなたがわたしといっしょにい
ることを望んでくれる限り、わたしはあなたの側をはなれないわ」
「ほんとに?」
「約束するわ」
「ありがとう! ありがとう!」
アシカは、ぐすんと鼻を鳴らした。私は、言った。
「色は黒いし、太ってもいるけど、君はなんて心の優しいアシカなんだろう」
アシカは、のけぞった。
「ひどい! 色の白いアシカなんて聞いたことがないわ。それに、痩せ細ったア
シカなんてみっともなくて」
「それはそうだね」
「それより、これからどうするのよ」
「どうするって、何を?」
「小説よ。決まってるじゃないの」
私はうなだれる。小説のことなんか、幸せなことにも忘れていたのだ。
「そんな顔したってダメよ」
アシカはそう言うと、冷蔵庫からオロナミンCドリンクを取り出した。彼女
は、ほんとに元気はつらつなのである。
「いや、一応考えてはあるんだけどね」
オロナミンCドリンクをひと口飲むと、アシカは言う。
「この二人、これからどうなるわけ?」
私はベッドの上にあぐらをかき、
「武志のほうは、オートバイで走り回って、小説を書きはじめるんだ。授業中に
も、休み時間にも、それに家に帰ってからも書きつづけるのさ。隣の席のアンク
ルに馬鹿にされたりするんだけど、そんなことはちっとも気にならない。とにか
く小説を仕上げて、それを萱島凌子に、おっと違った、ブーミンに読んでもらおうと思っ
ているんだ」
アシカはうなずき、
「じゃあ、ブーミンのほうは?」
「うん・・・・・・」
「面倒臭がらずに話してよ。わたし、それを聞く責任があると思って、戻って
きたんだから」
私はアシカに飲みかけのオロナミンCドリンクをもらうと、ひと口飲む。彼女
も私も、元気はつらつ。
「ブーミンはね、相変わらず英語の先生との逢い引きをつづけてるんだよ。教師
のほうは、奥さんと離婚するなんて言い出してね。だけど、それは困るからやめ
てくれって彼女は言うんだ。で、時々、武志とデートするだろう。そうすると、
やっぱり、武志が彼女の体を求めるわけだよ。でも、彼女としては、愛してるの
は先生のほうだから、武志と寝るわけにはいかない。でも、あんまり彼女が拒む
ものだから、少しづつ武志が感づいてきているみたいなんだよ」
「そりゃそうよね」
「でも、まさか英語の先生と関係を持ってるなんて言えやしないだろう」
「うん、うん、うん」
「武志が心から自分を愛してくれてるって、彼女にはわかってるわけだしさ。そ
れから、先生のほうは、彼女が若い男と、しかも自分の教え子なんかとオートバ
イであちこちデートしているのをよく思わないわけさ。ベッドの中で、あのこと
が終わったあと彼女を抱きしめながら、先生は言うんだ。どうか僕を見捨てない
でくれって。武志のほうも、海辺のカフェテラスかなんかで、お願いだからほんと
うのことを言って欲しいって頼むんだ。僕は決して悲しんだりしないからって。
で、彼女は二人の間ですごく苦しむことになる」
アシカはしばらく考えていたが、やがてベッドに仰むけに寝そべるとシーツを
首まで引き上げる。
「彼女はさあ、本能的に、ほんとは武志君とつきあうべきなんじゃないかって思
っているのよねえ。わかるわあ。でも、彼女が心と体の両方で愛してるのは間違
いなく先生のほうなの。で、結局どうなるわけ?」
私は立ち上がり、窓辺へ行った。微かに風の音が聞こえる。見下ろすと、既に
クリスマス・ツリーの明かりも消えている。
窓の外を眺めながら、私は言う。
「彼女の両親がね、彼女の様子がおかしいってことに気がつきはじめるんだ。
で、或る日、彼女が昼間先生に会いに行った時に・・・・・・」
「また学校をさぼったわけね」
「あっ、ごめん。言い忘れてたけど、学校はもう夏休みになったんだよ」
「バカ、バカ、バカ。大切なことを忘れないでよ!」
「はい。とにかく、彼女が出かけた時に、お母さんが彼女を尾行するんだ。そう
すると、娘はホテルのコーヒー・ルームで先生と会う。お母さんはあわてて、夫
の会社に電話するんだよ。で、もう一度コーヒー・ルームを振り返ると、二人の
姿が消えてたんだ」
「えっ!」
私は部屋の中を振り返り、アシカははね起きる。私はつづける。
「バレちゃうわけさ」
「いくら親子だって、そんなことするの許せない」
「まあね。だけど、仕方ないよ」
「それで、どうなるの?」
「両親は相談して、彼女の外出を一切禁止してしまうんだ。それから、先生の家
へ電話して、先生本人ではなくて、奥さんのほうに抗議する。いや、電話に出た
のがたまたま奥さんだったからね。で、学校へ通告するっていうのさ」
「その間、武志のほうはどうなっているのよ」
「そんなことになってるとも知らずに、彼は小説を書きつづけてるんだ。その小
説がほとんど完成しかけた頃、彼の部屋にブーミンがやってくる。家の人には登
校日だとかなんとか嘘をついてさ。で、言う。もうこれでお別れだって。武志
は、必死にその理由を尋ねる」
「そりゃそうよね。当然よ」
「彼女は、最後には、ありのままを話すんだ。新学期になれば全部わかっちゃう
ことだからね」
「なぜ?」
「だって、彼女の両親は学校へ届けるんだぜ。で、娘は転校させるつもりなんだ
よ」
「勝手ねえ」
「それで、武志が黙ってうつむいていると、彼女が突然言いはじめるんだ。この
まま、私をどこかに連れてって、って。家になんか帰りたくないって」
「駆け落ちしようってわけね。そうよね。そんな両親なんかと暮らすのは地獄だ
ものねぇ。でも、どうせなら先生とすればいいのに」
「いや、先生がビビっちゃっててさ、彼女は先生をあきらめようと思うんだよ。
で、結局、武志はOKするんだ」
「えらい!」
「彼女の告白はショッキングだったけれども、自分はどんなことがあっても彼女
の隣にいるんだと決めてるんじゃないか、と思ってね」
「to be right next to you」
「二人はその夜、海辺のカフェテラスで待ち合わせて、オートバイで北海道へ行
くと決める。武志の友達で、牧場で働いている奴がいてね。とりあえず、そいつ
を頼って行くことにしたんだ。で、彼女は一度家へ帰る。武志は、とにかくこの
小説を書き上げてしまおうと、再び原稿用紙に向かう」
アシカは深々とため息をついた。そして、言った。
「もうできてるんじゃないの。だったら、早く書けば」
私は肩をすくめ、
「できてるって言ったって、こんなありきたりな三流ストーリィじゃ書く気にな
れないよ」
「ありきたりで三流でも、本人達にとっては大切な、かけがえのないストーリィ
なのよ。武志やブーミン、それに先生や御両親にしてみればね。そうじゃないか
しら? 心をこめて、あなたは彼らを愛してあげなければならないわ」
私は、アシカの隣のベットに寝そべった。彼女の艶々した体に腕を回す。ウォ
ン、ウォン、ウォン、と三回鳴いてから、彼女は私を押し戻した。
「ダーメよ」
ウォン、ウォン、ウォン、と今度は私が三回吠える。
アシカはしばらく考えこんでいたが、やがてこう言った。
「じゃあ、その先を書けば」
「その先って?」
「今あなたがわたしに話してくれたストーリィの先よ」
「今のところは?」
「省略しちゃえば」
「そんな横着、許されやしないよ」
「だって、あなた、もう話しちゃったじゃないの。いいわよ、それで。偶数の章
だってこの小説の一部なんだから。だいたい、もう筋がわかっちゃってるのに読
まされたんじゃ、読むほうだって退屈しちゃうじゃないの」
「うーん、それもそうだなあ」
「でしょ」
「そうしようかなあ」
「そうなさいよ」
アシカはウィンクすると、もう空になったオロナミンCドリンクの壜をぺろぺ
ろしゃぶりはじめる。なんとなくわいせつな感じがした。